テキスト

絵画の言葉

 言葉は絵画においてどのような働きをしているのだろうか。このような問いをいただき、自分の制作を省みるよい機会と、様々な瞑想をめぐらしてみた。
 すなどってきたもののいくつかを色の褪せぬままにここに提示できたらと思う。

 いただいた問いの中の「言葉」にはけだしふたつの意味が考えられる。詩や小説という芸術ジャンルを成り立たせている純粋に言語的な意味でのそれと、あらゆる表現形態が宿すであろう、広い意味でのコミュニケーション性の謂いである。ここでは便宜的に前者を「ことば」、後者を「コトバ」と呼びたい。いずれにせよ、どちらもわたし個人に引き寄せて、自分の制作手法を通してしか語ることができないことをあらかじめ断っておきたい。問いはこう書き換えられるだろう。
 「ことば」と「コトバ」、このふたつはわたしの絵画においてどのような働きをしているのだろうか。


 まず前者、「ことば」について。
 わたしが描いているのは世に言うところの抽象画であるが、ことば、なかんずく詩のそれは、音楽とともに、わたしにとって作品発想の最初のひとはじきになる。とりわけ詩のなかのみずみずしく屹立したことば、光彩を放つ表情豊かなことばは、享受者だったわたしをやすやすと創作者に変える。それを何度も繰り返し舌にのぼらせて、愛撫しながらの制作は、愛の身悶えとなる。もとより抽象絵画はことばをなぞるものではなく、挿絵でもない。ことばはあくまで火打ち石で、その後繰り広げられる展開こそ連想の火事である。契機となったことばはタイトルなどに痕跡をとどめることもあるが、多くの場合、跡形もなくなっている。ことばを焼き尽くして絵画が一点完成する。そしてタイトルがどこからか飛んできて鳥のように作品の上にとまる。
 タイトルを作品識別のための記号、または愛称だと考える人もあれば、わたしのように、掛け軸の絵などのなかに見られることば、賛、それの画面の外に出たものと捉える者もいる。抽象絵画が最も「写実的」な心象風景の写生画ならば自然そうなる。稀なる均衡状態に到達した心情・たどり着いた境地•現在浸っているこころの景色などをぜひとも絵画のコトバで表したいと思うとき、それに冠するタイトルとしてのことばはいきおい詩のかたちをとる。

A. 以下に示したものは、漢字の持つイメージ喚起力と作品を共振させてみようとした試みである。

 『柔暖乳明』『菫蜜蜂光』『律青醒聲』
 『微睡瞑爽』『禱光雅歌』『微睡虹彩』

B. この流れで次のようなタイトルもつけたことがある。早春・盛春・晩春・初夏・梅雨・盛夏・晩夏・秋・錦秋・初冬・深冬と、季節を十ニに分けて描いた作品に冠した題である。早春から盛春、初夏から梅雨までの分をあげる。

 『春光漸増』『復氣暖土』『野邊春色』
 『若菜春宵』『春夜閑人』『櫻酔春夢』
 『新緑芳草』『昼彩光蜂』『觸指乳葉』
 『蔓草蒸湿』『緑叢靄雨』『緑陰緑想』

C. バロック時代のある音楽家の組曲をそのまま絵画に翻案した仕事があるが、そこに付した題は次のようなものであった。

 『十月の朝の光の満てるアトリエの空気、浄化せしチェロの音:アルマンド・クーラント・パヴァーヌ・ガイヤール・ガヴォット・ブーレ・メヌエット』

D. 絵の制作と並行して詩を作ることもある。その冒頭の一行を作品のタイトルした『アイスランドの朝の庭』という作品がそうだ。春のアイスランドの、壁で囲まれた庭を、朝の太陽が移動し、壁や庭に映える日差しの領域が冷え冷えとした空氣のなかにすこしずつ拡がり暖かくなっていくさまを画廊の右面・正面・左面と、三面に展示した15点のバリエーションであらわした。本来動かない絵画であるが連続的に並べることによってひとつの動感と時間を想起させ、それとともに、視覚を光・触覚・温度・匂いといった他の複数の感覚に接続しようという試みだった。

 アイスランドの朝の庭
 春のやさしきひかり満つとも
 なお肌寒く
 半ばは蔭のなか
 木洩れ日揺るる
 熟れた胸肉(むなじし)は
 懶(ものう)く
 夜の闇の煩悶を抜けしあとの
 安堵を発す
 その閑暇の香
 日曜日の懶惰とまみえ
 憂(う)し


 後半は抽象絵画における「コトバ」について思うところを述べたい。
 幸せな気分を色や形であらわす能力は、抽象絵画はきっと詩や小説と劣らない。悲しみにおいても同様だろう。しかし悪口や嫉妬となるととたんに分が悪くなる。その理由はことばが持っているロゴスを抽象絵画は持たないからだろう。悪口ともなると(それが論理的であるかないかは別にしても)もうこれは感情のロゴス化に他ならないわけだから、抽象絵画のおおらかさでは寸法が合わない。文章のことばにあって、絵画のコトバにはないのが論理性である。絵画は良くも悪くもモノなのである。モノである絵画は詩や小説とは異なり、了解のための時間はほとんど一瞬間である。絵画の前での三分間は永遠である。
 書かれたり、発音されたりするものだけにコトバが宿るわけではない。沈黙のうちになされる仕草・態度・表情によって、場合によってはただそこにいるだけで、伝わるものがある。凡百のことばが口舌の徒の戯言と化してしまうほどの沈黙のコトバのことだ。絵画の言語は色とかたちといったものだと一般には思われているし、実際そうなのだが、別のいいかたをすれば、絵画のコトバは非言語的なものであるといういいかたもできる。抽象絵画にはおいては大きさというものも、マチエルとあわせて、色・かたちと並ぶ非常に重要な要素である。それというのも、抽象絵画は具象絵画のような図像性は少ない分、モノ性が強いからである。ときにはキャンバスの形さえも大切だ。
 モノとはとりもなおさず実体のことである。ビロードと見紛うばかりの深い赭色の薔薇は生殖器官の一部であるということを忘れさせるほど、その姿と色と香りで人を魅了する。何のためにそうである必要があるのかと思うくらいだ。それと同じように抽象絵画は壁に咲く。壁に佇まいを無音で響かせている。モノである絵画の発話はそのような形でなされる。詩のことばは実体ではないが、実体、あるいは実体以上のものを想起させる契機である。かたや絵画は実体にとどまり続ける。絵画は実体であればよい。それどころか徹底的に実体でなければならない。絵画のイメージ喚起力はまさにそこに依拠しているし、美術家のメチエはそこにある。そのように詩におけることばの主たる機能は豊かなイメージを喚起させる力であり、それこそが実体を持たないことばの本領である。ひとことでいえば、隠喩である。モノであり、実体である抽象絵画についてもわたしは同じことをいいたい。抽象絵画こそ壁にかけられたひとつの隠喩である。

 モノとしての絵画がなぜ隠喩たりうるのだろうか。それをこれから述べたい。
 人間の内部にあったものがかたちを得て、おもてにあらわれ、誰の目にも触れることのできるようになったとき、いわゆるモノになったとき、それは不可避的にコミュニケーション性を胚胎する。それがコトバを持ったということである。作品と人の間に何ものかが架橋される可能性を持つ。しかし問題は絵画の方だけではなく、人の方でもある。
 もし地球に人が一人もいなくなっても夕日はなお赤いかという命題がある。人がいて夕日は初めて赤いのであり、人がいなければ夕日は赤かろうが緑だろうがかまわない。いや、そもそも人がいなければ赤色も緑色も存在はしない。これはコミュニュケーションの原初的な原理を物語っている。つまりモノはありつづけても、人がいなければ世界は発生しない。そもそも誰のために発生するのか。世界はモノでできているが、鍵はいつも人の側にある。人がいるかぎり世界はコトバを発生させずにはおかない。ここに人間の感覚の問題がある。
 音楽にかたちや動きを見るように絵画に音を聴く。波長という点で、確かに色と音は同質のものである。また、色は光であり温度である。色の響きを感じさせるとともに、そのなかに匂いを、手触りを味わわせるのが抽象絵画の醍醐味である。絵をみるという行為は視覚が担当しているのだが、その間も他の感覚は決して眠っているわけではない。視覚の網がとらえたものにたいして、他の感覚も一斉に応じ、連絡し合い、思索をめぐらす。
 そもそも色・かたち・音・におい・味・肌ざわり・温度・空気感といったものを律儀に分化する意味がどれほどあるだろうか。入り口としての感覚器官が目・耳・鼻・舌・皮膚だったというだけで、感知してしまってからは、わたしたちは刺激を区分せず、渾然一体となった総体として受け止めているのではないだろうか。そしてそれを自分の持っている感覚器官に沿ってあとから理知的に分節しているということは充分あり得る話である。

 あるはずもない桃のみずみずしい香がかすかに鳴っている画面の、水色の層の上にうすく施された肉色の絵の具の健康さ。それは十四歳の少女の肌の、内からいのちが押し上げているさまを思わせ、体温のぬくもりをもって、まわりの冷ややかな空気と接触し、その表面に甘い擦音を滑らせている。

 シネステジア synesthesia という語には、日本語では共感覚という訳が与えられているが、わたしには感覚聯合といったほうが本来の意味を説明しているようでしっくりくる。そうした感覚の交通が、わたしたちの感覚を耕し、回路を育てる。そうして来たるべき対象に対し感覚はいつでも応戦できる状態に仕立てられる。武装し、毛羽立っているような感じやすい状態は、いつでも発作を起こせる。
 先の問いの答えはここにある。抽象絵画が壁にかけられた隠喩であるとは、制作・鑑賞におけるまさにこのシネステジアへの配慮によって成立するのである。

 シネステジアに関連してオノマトペについてもぜひ言及しておきたい。前者を起動させる契機としての代表的なものが後者だからである。確かにわたしたちは目で絵画を見ているのであるが、目で絵画に触れてもいるのである。つるつる・ピカピカ・ごわごわ・ざらざら・ふわふわ・カチンカチン・どろどろといった手ごたえを触れもせず感じている。絵画のマチエル、すなわち表面の肌理にわたしが感応しているのである。抽象絵画はつとめて平面的なものであるが、それだからこそ触覚感が発動する。
 触感覚といっても具象絵画が持つような描写対象の質感のことをいっているのではない。絵画そのものが持つ質感のことである。具象絵画の本質はイリュージョニズムであり、図柄が本分だ。だからこそイメージ性を強く打ち出すこともできれば、メッセージ性、すなわち政治性も持ち得る。しかし抽象絵画は政治性を曖昧にした分、モノに徹し、平面を目指す。そのことによってより触覚的になり、官能的にもなる。オノマトペをそのままタイトルにするようなことはわたしはしないが、構想、制作の段階ではいつも頭の中にある。絵画上のオノマトペを成立させるには絵の具と支持体に対する研究と熟練が不可欠であると思われる。

 意を尽くせただろうか。大変こころもとなく思うが、ページが尽きたので筆を擱くことにする。

(『詩人会議』2022年10月号)